吉本隆明「ひきこもれ」考
 
第1章 「若者たちよ,ひきこもれ」
 
@世の中に出張っていくことはそんなにいいことではない。出張ってものを言う職業に従事する人たちがそんなことを言っているので,そういう人たちはコミュニケーション能力があり,社交的な人がよいと無意識に決めつけている。
 
 この世界ではどうしても出張ってものを言う人たちの言葉が支配的で,力をもつことになっている。出張っていかない我々の言葉は,力無く自身の前で降下してしまう。したがって,我々もまた出張ってものを言う人たちの言説に思考の位置を譲ってしまいがちになる。自分の思考,自分の言葉を取り戻さなければならない。
 
A一人で過ごすまとまった時間。遊んでいてもボーッとしていても,自分の時間を持つということが大切であって,端から見て無駄に見えても内部的には価値を生み,価値に目覚めるといったことが行われている。
 
 建前から考えると,つい「役に立つ人間」ということを,自他について考えがちになる。そんなことから,「お手伝いをしよう」というスローガンが生まれてくるが,それは時間の分断を意味するから,いいことではないと言われている。他人から見て意味のない時間,何も作り出していない時間こそ,本人にとってはそうではないことが言われている。これらは一般的な言い方からは逆向きの言葉となっている。よく考えてみると,考えを深めたり,集中して考えるということをするのは,コミュニケートしていない,一人の時間の時に行っていることの方が多いような気がする。個人の中に,深まりと価値の増殖が行われるのは確かにそのようなときだという気がしてくる。黙っているときの,意識の集中というもの。これは同じことを繰り返し考えているとしても,個にとって,大切な個を証明するものとなることは間違いない。
 
Bひきこもりには二種類ある。病気の範疇に入ってしまっている人たちと,孤独癖があったり一人でいるのが楽だと感じる人たちである。
 病気の範疇の人は専門家に頼むよりしょうがない。病気というところまでは行っていない他の人たちは,その人なりの他人とのつながり方というものがあるので,他からとやかく言うべきではない。特に,「引っ込み思案は駄目で,とにかく社交的な方がいいんだ」という価値観を潜在的に持った人は,ひきこもりから生まれる価値をちっとも見てくれないので,自分たちの価値観を押しつけることになりがちである。いずれにしても自分の尺度を他人に当てはめ,大きな声でものを言ったり善意の押し売りをするのは愚かなことである。
 
 残念だが,ここでは放っておくと病気の範疇に入ってしまうメカニズム,そういうケースがしばしばあることが顧みられず検討されていない。これこそが一番に当事者たちを悩ませる問題ではないかと思う。悩む必要がないところで悩んでしまう。これが「ひきこもり」の一番の問題点では無かろうか。これをどう食い止めるか。「ひきこもり」が世の関心を集めている理由はこの一点にかかっていると言っても言いすぎではないであろう。最悪の結末は病的なところまで進むということ。親子の関係が内側に向かって閉じられていくということ。にっちもさっちもいかなくなった時に,親殺し,子殺しの事件が起きる。この報道がまた,同様の渦中にある親子の心理に影響し,親子の焦りと不安を再生産していくことになる。
 ところで,「その人なりの他人とのつながり方」という言葉がさらりと語られているが,日常の中の人間関係を振り返って考えると,この関係はみな「そのひとなり」であることが分かる。このことから少なくとも二つのことが言えると思う。一つは,非の打ち所のない形で理想的な他人との関わり方ができるものなど,この世に誰一人としていないということである。もう一つは,病気でないかぎりは,いずれこのつながりは誰にとっても可能であるように基本的にはできあがっているということである。聞く,話す,が出来れば,コミュニケート出来るように人間というものは成り立っているものだし,もし何かの縁で私が接する相手であったならば,その人の「良さ」を理解して接することが出来るにちがいないと思う。要するに,私のように「何でもない人間」の間では,「いい加減につきあう」という関係の取り方が日常茶飯なので,そういう形でのコミュニケートならば,何ら問題なく入り込めるものだと思う。そして,とりあえずはそれで十分なのである。
 
C言葉には,自分以外のものとのやりとり,つまりコミュニケートに用いる言葉と,自分のためにだけある言葉とがある。後者の言葉は,ひきこもることでしか,豊かさを増殖したり獲得したりということが出来ない。心というものは,ある意味でこの第二の言語とでも呼ぶべきものと深い関わりがある。
 失恋のように,内臓に響くような心の具合は,大勢の中に混じってワイワイ騒いだり遊んだりすれば治るというものではない。かえって,ひきこもって,自分に向かい合うようにしながら何かを考えるといったことでしか,立て直すことができないものだ。
 明るくて社交的な人は,大勢の中では確かにもてはやされるべき理由がある。その場所では暗い人,ひきこもりの傾向のある人は,マイナスの評価をされ,そのことでコンプレックスを持つようになるかもしれないが,そのことは決して悪いことではない。考えること,第二の言語をふくらますことでは人よりも余計にやっているということを忘れないでほしい。人の役に立つなどの意味性としては乏しくても,高い価値を生み続けているのだから。そして,その価値は,他の人にはわかりにくいかもしれないが,いつか何かの時に,その豊かさが伝わるときが必ずあるはずである。
 
 よくある,落ち込むという行為は,自分を立て直すために必要な行為なのであり,そこでは自分との対話が行われているのである。このとき,存在が,言ってみれば,ひきこもることを必要としているのである。もし,そう言ってよければ,自分のためだけの第二の言語をそこで創り上げようとしているのである。こんな時の考えは,他の人にとっては意味あることではない。自分にとって意味があり,それ以上に,考える行為は価値に結びつく行為となる。どんなことを考えるかではない。考えること自体が価値を生む行為なのだ。
 意味と価値のこうした使い方は,吉本隆明がしばしば行っていることである。私はこれを空間と時間,横糸と縦糸というイメージで捉えているが,吉本が言うところを理解するための重要なキーワードの一つだと思う。
 分かりやすくするために単純化して言ってみれば,詩人のような存在は具体的に社会的に役立つ行為はしていないので,意味性としては小さいが,高い価値を生み続ける存在と見なすことが出来る。逆に政治家は公益に役立ち,大きな意味性を持った存在であるが,必ずしも価値を生み続けているとは見なしがたい。いずれにしても互いに向き合う極として,その中間のどこかに私たちは位置しているはずなのである。そして,善悪では勿論無く,ただ意味性に傾くか,価値性に傾くかの違いがあるだけであり,どう傾くかは個々の資質の違いに左右されるだけであると考える。
 
D社交的な要素と,ひきこもりの要素,その双方のバランスがとれていることがおそらくはいいことなのだろうが,どんな人もどちらかに傾いて存在している。きれいにバランスがとれている人は,まずいないと言っていい。その意味でも,「正常」ということを,あまり狭くとらえる必要はない。
 孤独癖,ひきこもり傾向を悩んで直そうとしても,一時的にはごまかせても元に戻ってしまうものである。人間の性格は胎児から乳児の時期に大部分が決まってしまうものなので,これはもう仕方のないものだとあきらめた上で,どう閉じきらずに風通しよくやって行くかを考えた方がよい。
 また,これは善悪の問題ではないと思う。誰でも,「意味」に傾くか,「価値」に傾くか,どちらかであって,良し悪しではない。
 
 意味と価値を別の言葉で言えば,自分を何かの役に立つことを第一義として考えるか,ことの本質の追究を第一義として生きるかの違いである。もちろん,あまり極端すぎなければどちらでもいいということになる。
 
E社交下手でも恋愛においてハンデはない。なぜかというと,ある距離内に入ると世間的な価値判断は関係なくなって,自分にとって好ましいかどうかという問題だけになるからだ。喩えていえば,本質的な恋愛というものは遺伝子や細胞が互いに気に入ったところで成り立つもので,世間的な在り方はもちろん,美人かどうかということも,そこではさほどの問題にはならないのが普通である。
 いま,ひきこもりの人が増えてきたのは,親も世の中も,ある意味で「ゆるく」なっているからだという見方も出来る。定職につかず,ひきこもって暮らすということが許されるのは,経済的に豊かになって「明日食べるものがないかもしれない」ということがほとんどなくなったからだという面がある。せっぱ詰まった状況にないから,自分のやりたいようにやっていたいし,それが出来てしまう。
 昔の親は「喰わせている」という実感があって,子どもにも「こうしろ」と強く言うことが出来たが,いまはそういう実感も薄く,親も強く言うことが出来なくなってきている。もちろん実感も緊張感も薄いところで無理に強く言ったところで子どもに通用するはずはない。
 恋愛は,ひきこもりの状況から抜け出し,社会との関わりを回復していく一つのきっかけになりうるかもしれない。好きな人と暮らすために仕事もしなければならないわけだから,自分から関わっていくしか仕方がなくなるのである。
 
ここでも疑問を感じるのは,完全に家庭内に引きこもった場合,異性との関わりも途絶えるのではないかと言うことだ。そこを考えない発言だと思う。ひきこもりの子がいる家庭は,親族はもちろん,赤の他人との交流は閉じてしまうことが多い。両親はいくらか外との関わりを持つだろうが,ひきこもりの子はほとんどを自分の部屋の中に過ごし,親との関わりさえ最小限のものにしぼんでいくのが普通ではないだろうか。したがって,異性に出合うこと自体がなくなってしまうものなのだと思う。
 吉本は,ここで,直接ひきこもりの子に語りかけるように,「心配いらない」と言っているのかもしれない。その意味合いでは,この文を読むひきこもり当事者の気持ちを,軽くすることに役立つものではあるかもしれない。社会に関わっていくことに,あまり臆病にならずに,前向きになれるという効果もしかすると生まれるのかもしれない。いずれにしても,大変だ大変だを繰り返し,当事者や予備軍を怯え指す効果しか持たない言説が多い中で,「ひきこもり」に関わって恋愛を述べた文章は他に皆無であると思う。このように深く,ひきこもり者を理解し,肯定する著者の真意が,どうしてあまり評価されることなく,世間一般にも広く取り上げられていないのかは疑問だ。
 
第2章 「不登校について考える」
 
@ひきこもりには二種類ある。一つは病気の領域にあるもので,もう一つは「気質的ひきこもり」とでも呼ぶべきものである。一般にはこれが混同され,区別を曖昧にして「ひきこもり」という一つの言葉でくくられてしまっている。
 「不登校」の場合にも,精神が病的な状態になっていて学校に行けない場合と,自分が行きたくないから行かないという場合がある。この二つは区別されなければならない。
 病気とそうでない場合と区別がつきにくいし,病的な部分を強調して考えるから不登校全体を大問題であるように扱い,大騒ぎすることになってしまう。学校や親に問題があるのではないかという世間の理解も手伝って,先生も親も理由探しに懸命になる。子どもは追求されることが辛くなって,かえって不登校になりきるより仕方なくなっていく。場合によっては,「病気ということになった方が楽だ」と考えるようになる。つまりは,周囲が問題視しすぎるから,不登校に追い込まれるといった面もある。
 建前ばかりの学校の雰囲気が嫌いであったり,勉強が面白くないという理由で学校に行かないのは,冷静に考えれば異常でも何でもない。適当にさぼって,行ったり行かなかったりしながら,何とか卒業出来ればそれで十分である。  
 
 教員時代を振り返って考えてみると,第一に,学校関係者にとっては子どもがさぼって学校に来ないということは,あってはならないことなのである。ずる休みしてはいけないということは,教えそのものでもあるし,疑いのない前提であるかのようにみんなが考えていることだ。つまり,そういう気持ちになるのは誰にとってもあり得ることだが,学校というのは,そういうときにがんばる気持ちを育むということが使命であり,存在意義であるとも言える。登校すること,授業を受けることを,強圧的にではなく,強制するところのものである。特に公立学校,義務教育においてはその傾向は強いと思う。
 そもそも公教育においては,教育自体が,国家の方針に従って組織されている。社会の成員をどのような教育のもとに有能な一員として育てていくかは,国家の戦略でもある。勤勉,努力,これらは国家の繁栄,存亡に関わることだから,当然そういう国家的観点を組み込まれた教育が組織される。個々人の欲求から教育が組織されているのではなく,はじめに国家が前提にあって,その国家が,国民にどんな教育を施すかを考えるところから成っている。少し先の時代,あるいはもっと前の時代を考えると,それは絶対的なものであったろうと想像出来る。現代は,その強制が,「ゆるく」なっている時代だと言えば言えるだろう。
 とは言っても,そうした公教育の一つの主とした機関である学校を,ずる休み,あるいは理由なく休むということは,関係者にとってはパニックとなるほどに大きな問題に感じられるものなのである。「あってはいけないこと」と無意識に思いこんでいる先生たちも多いのではないかと思う。私自身,不登校はいつまでもほっとけという気分ではいられなかった。勉強も遅れて後が大変だということや,長く休むと,いざ行こうというときに気まずさを感じ,さらに長引く可能性もあると考えたからだ。だが,この「勉強が大変になる」という思いも,実は大きなくせ者であると思う。どういうことかというと,ここから,落ちこぼれ,非行,暴力,犯罪,不幸,という連想に短絡的に結びついてしまうからだ。そういうこともないわけではないだろうが,学校関係者にはあまり「落ちこぼれ」の経験者はいない。実際にはどこでどう転ぶかは分からないのが人生である。だが,一般に流布される言説から,よくないイメージを持ってしまうものである。それだからこそ,余計に何とかしなければと思いこんで,大騒ぎをし,状況を悪くして子どもを追い込んでしまうことになりがちである。もちろん先生たちの働きかけによって,登校する子どもたちも出てくるにはちがいない。しかしそうした子どもたちはもともと,根の浅い「不登校」であると考えることも出来る。
 問題はむしろ,「不登校はあってはいけない」という無意識を持ちながら,その思いの中で揺れる大人たちの感性にある。そう,思う。つまりは現代において,何らかの形で生きながら,そういう生き方に自信が持てず,表に現れる言動としても内面的にも無自覚に漂う存在であるところから,それが子どもたちに反映し,戸惑わせていると言えば言えると思う。大人たちの傷に,「同苦」しているのだ。
 昨今,制度的にはやや柔軟になってきた。逆にいえば「不登校」がしやすい環境になったということであり,現象的には増加していくことは容易に予想出来る。
 もう少し広いところから見れば,これは社会の余剰労働力を反映しているものと見ることも出来る。つまり必要とされない労働力の増加である。過去の歴史を見ると,都市に失業者が多くなると,その人減らしのためであるかのように戦争が起こることになっている。余剰人員をどうするかということは国家にとって課題でもあるし,深刻な問題である。文明の発達はそれが機械であれ何であれ,操作出来る人間がいればいいだけで,人余り現象をもたらすことは当然の帰結である。逆にいうと,人手を減らすために文明を発達させているのだ。どうせ,やりたいことがこの社会で出来る人間の数に限りがあるなら,そして,どうせ頑張っても無理なら端から頑張ることを止める,そう考える青少年が出てきたって不思議はない。こういうことも関係があるといえば言えるのではないだろうか。
 このように見ても,「不登校」問題には,論じるものの数だけ,見方の違いはうまれてくるものだと思う。
 本質的なものは何かという観点から,歴史の中,あるいは空間としての世界の中に「ひきこもり」「不登校」をおいて考えたときに,はじめて吉本の見解は生きてくるもので,世のHow toものや,「引き出し症候群」の対策や対処法を述べたものとは,はじめから次元を異にしていると言っていい。「ひきこもり」や「不登校」への先入見を,まずは無くすということがこの書のテーマであって,ひきこもりや不登校を無くすことに力を注いだ考察ではない。もちろん万人が同じ見解に立てば,当事者たちの精神的負担が軽減することは間違いない。結果として,最悪の方向に向かわないという見方は出来るであろう。
 
A不登校について考えるときに思い出すのは,子どもの頃,教室に流れていた嘘っぱちの空気である。
 先生たちの間には,理想的な子ども像,生徒像みたいなものがあって,それに合わせた過ごし方を学校でしていれば,あるいは建て前だけ申し分のない生徒であれば文句は言われない。子どものほうもそれを分かって振る舞っている。
 先生たちは見かけだけ立派であってくれればいいのだし,子どもたちもそれを理解して見かけだけは立派に振る舞おうとする。嘘をつきあいながら,それでいて真面目で厳粛であるという雰囲気が学校には漂っていた。
 それが偽物であろうと,一応の真面目さ,厳粛さのようなものが教室に漂ってさえすれば,教師は文句を言わない。生徒も「偽の厳粛さ」のために我慢する。我慢して我慢して,「学校というものはこういうものなんだ,仕方がないんだ」と諦めて過ぎていく。この「過ぎていく」ことに耐えきれない子どもたちが不登校になる。
 おまけにいまの社会では,この時期に将来のことまでが何となく決まってしまうところがある。いま落ちこぼれたら将来はないぞ,というような嫌な圧迫感が,現代の子どもを苦しめ,より大きな負担になっているのではないだろうか。
 
 自分が教師をしていたとき,よく考えると,確かに,学校で,教室で,子どもたちが「よい子」をしてくれることを望んでいたように思う。当時は,心の底から立派な人間になってほしいと願っていたが,この年になってみると,世の中にはそんな立派な人間が住める場所などどこにもない気がしてきた。また,自分自身についても,立派には生きられなかったという反省がある。所詮,自分には不可能なことを子どもたちに望んでいたのかもしれない。教師としては切ない願いかもしれなかったが,子どもたちには傍迷惑なことであったろうと思う。
 小学校段階では,どの子どもも教師や大人の要望に,必死に応えようとする姿が見られる。どの子も愛されていたいのだ。だが,努力しても要求に応えられない子どもたちもいる。また,稀にではあるが,要求を感知していながらわざとのようにそれに反した,あるいは無視した言動をとる子どもたちも近頃は見かけられるようになっていたと思う。
 教師としての自分はまた,ここで吉本が言うところの「偽の厳粛さ」についても思い当たるところがあったように思う。うまく言えないが,教室の中に「きれい事や立派さを実現したかった」というような,ユートピアを求めていたというような,そんなことである。もっと具体的にいうと,教師が話し始めたら,一斉に注目し,聞き入って深く理解する。そういう姿をさえ求めていたのだったかもしれない。頭では,自分の要求が不可能を求めていると分かっていても,どうしても無意識のうちにそんなことを求めている自分がいるのだった。それが何故なのか,いまでもよく分からないところがある。ただ,教室という場所にいて,子どもの前に立つと,そういう真面目さ,あり得ない真剣さ,道徳性などを求めてしまうものなのかもしれないと思う。自分の子どもの時,また,いまの自分を考えてみても,かなり丁寧に考えると,自分というものはそれほど完璧にコントロール出来るものではないし,一瞬一瞬は思っている以上に動物的に過ごしていることが分かる。つまり,目先の些細な出来事に敏感に反応する感覚に振り回されるようにしながら生きている。決して崇高な理念を生きているのではないのだ。
 職務上の会議や研修会に参加すると,そのことはよく分かった。嘘つきの講師と,おべっか好きの会議の参加者と,真剣に考えようとしながら会議が嫌で嫌でたまらなくなる自分といて,それはまるで教室空間に存在したものと同質のものがそこに存在しているのだ。自分自身が,会議や研修会にある,人を萎縮させる嫌な「はりつめて重々しい雰囲気」を,実は自分自身で教室内に再現していたことになる。このことを,多くの教師は見て見ぬふり,感じて感じぬふりをし,あるいは気づかぬふりをしていることは間違いないことだ。そうして多分,誰一人そういうところに外科的なメスを入れることはしないだろう。それで平気な人が,多い。
 いや,中にはその「偽の厳粛さ」を,卒業証書をもらうときのように,頭上に捧げ持つ人もいるにはちがいない。案外,私が思う以上に,そういう人は多いのかもしれない。だとすれば,本当にそれでよいのだろうか。見えない権威に追従する迷妄から,私は私たちの世代,そしてより若い世代は,抜け出ていると感じてきた。それは大きな錯覚に過ぎなかったのだろうか。
 私は,そうは思っていない。断じて,そうは思っていない。先生たちもまた子どもと同様に,「仕方がないんだ」と諦めながら過ぎようとしているのだと思う。私は,このまま「過ぎていく」ことに耐えられず,学校という職場を,去った。
 
B不登校の子どもたちは,鋭くまっとうな感受性を持っている場合が多いが,だからといってまったく学校に行かなくなることがよいことだとは思わない。そうした子どもたちだけの一種のグループを作ってかたまることも止めた方がよい。
 不登校の子どもたちの性格を「改良」しようとするのもよくないし,同類同士を集め,長所を発揮させようとするのも間違っている。
 出来れば,制度の中にいて,あるいは一般社会の中にいて,自分の中の違和感,不登校的な生き方を何とか貫いていくべきだと思う。
 同質の人たちが狭い集団を作って何かやっていくと,閉じられた中で一種始末におえない考え方などが生まれてきてしまう恐れがある。フリースクールにしても,出来るだけ現行の学校と同じスタイル,運営の在り方をとっていくならば,そこには本音の社会を学ぶ契機,自分を反省する契機が残っていて,一つの選択肢しての可能性を見いだすことが出来る。  
 
 ここには吉本の,ひきこもりなどの一連の現象に対する本質的な見解がある。要するにそれは,個々人を,向きを変えていえば,自分を,「特殊な場所に置くな」ということである。特に閉鎖された集団に置くなということだ。そうしてしまうと,世の中にはいろいろな考えの人がいて,けれどもそんなふうに違っていてもみんな平等なんだという感得,考え方を獲得出来なくなるということ。
 吉本の平等概念はここに現れているように,決して静的で先験的なものではない。制度的に考えられているものでもなく,あらゆる差異がなくなることを意味するものでもない。どちらかといえば,未来の向こうにも消えない差異が残る中で,にもかかわらず,その差異の内側にすべての人々が「平等」を感知出来る,そういう状況をめざすものだと考えていい。つまり,一人一人が差異の中に「平等」を拾い上げることが出来るようになることを未来に向かってめざすものだと思う。意識的か否かは,問題ではない。すべての人々が意識的,無意識的に平等感を感じられる社会が到来したときに,平等な社会が実現すると考えるものだ。それは,静かに実現する。そういうものとして考えられていると思っていい。
 だから,ひきこもる若者が,その渦中に「みんな同じなんだ」という平等性にあたりがつくまでひきこもって考える,考えを掘り下げる,そこに可能性を感じているといっても良いと思う。もちろん,これは私の独断に過ぎない。
 
Cほとんどの親,あるいは大人は,学生だったときには適当に遊んで,落第しない程度のそこそこの及第点を取ってというようにやってきているに違いない。よほどの秀才,優等生以外,そんなものだと思う。
 子どもに対しては,そこの部分を隠して,自分を「偽の厳粛さ」に仮構して対したり,子どもだけは学校の中で道徳や勉強を真面目に学ぶだろうという錯覚に陥ったりしがちになる。しかしそんな幻想は,はじめからおしまいまで幻想に過ぎない。また,道徳性といい人間性といい,「偽の厳粛さ」に満ちた学校に,大きな期待を寄せるのは間違っている。子どもに,学校で真面目に勉強して優等生になってほしいと願う親は,自分の体験をけろりと忘れて,学校空間,教育空間の持つ,あの変に真面目くさった雰囲気だけを思い起こして学校の印象を再構成してしまうからに違いない。
 
 ここでも吉本は,「偽の厳粛さ」という実感にそった物言いにこだわっている。吉本によれば,この「偽の厳粛さ」は,日本の社会の諸悪の根源だということになる。その意味ではもう少しこの言葉の指示するところを緻密に解説出来たらいいのだが,それをしていたらほとんどの紙数を使い果たしてしまうに違いない。ここでは,「ああ,あのことかな」という程度で,理解してもらえたらいいと思う。それに対してはっきりした物言いが出来ない,反対の意志を示せば村八分にされかねないもの,そういう独特の,絶対善の雰囲気を醸し出している何物かを指している。金正日の肖像画,そんな具体物ではないが,この社会のそこかしこに,犯してはならないタブーのようにはびこっている。吉本はこれを偽物だと言い切っていて,私なども彼に同調してこれを否定的に考えているのだが,これは評価が分かれるところに違いない。知の分水嶺の一つだといっても良い。
 何でもいいのだが,たとえばということで例を挙げると,国旗を掲揚するときの参会者の形式的な姿勢の統一。あるいは卒業式などで国歌を歌うときの姿勢。そこに漂う厳粛さの雰囲気が,人為的,作為的なものであるかどうかという判断である。そしてそれを「偽物」と見なすか見なさないかの違いである。
 別の言葉で言えば,作為のない,根源的に伝統的な共同体のルールとして結実した厳粛さであるか否かということ。国民一人一人が本当に認めたものであるか否かということ。そしてそれが,真か偽かということ。私は,そのように考えている。